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研究とは① マンダラートと研究の流れ   

2009年 12月 04日

 最近になってなんとなく、大学院で色々とテンプレート的に研究の進め方のようなものを語られて、おおまかな研究の「やり方」――所謂「流儀」と言われるようなレベルの流儀ではなく――の全体像が形づくられつつある。なので、それを元いた大学の方にある程度還元することも含めて、色々と学んだことをシリーズでメモライズしてみようと思う。

 研究は「やりたいこと」を決めることが真っ先に必要だ。というわけで、やりたいことを決めるにはどうすればいいか、を学ぶ必要がある。とはいっても、誰にとっても「やりたいことを決めるにはこうすればいい」ということを決めるつもりでやっても不可能だし、自分にとってはどうでもいい問題につまづいて行き詰まることにもなる。また、「こうすればいい」にも色々あって、本来やりたいことがある、あるいは常時作り替えられ続けているならそれはそれでいいが、「実はコイツ研究あんまりやりたくないんじゃないか」というような楽の仕方をする事だってある。自分がそんな感じだな、と自覚した時は、一旦時間をかけて袋小路を戻るべきだ。
 すなわち、「やりたいことを決めるにはどうすればいいか」と自分に問うてみることは、以下の二つのリスクがいつのまにかその「問う声」のニュアンスに含まれて仕舞いかねないことへの注意を要求する。
・自分のための方策に、初めから一般化を期待すること。
・自分で歩くことをやめてしまうこと。

 ただしその一方、「流儀を定式化しない」ことの弊害があることを忘れてはならないのだ。そうでなければ、ただ文献を読みあさってそれぞれ気になった箇所に突っ込みを入れる「だけ」になってしまったり、「にもかかわらず違和感が拭えない」というのは出てきているにも関わらず、それが新たな文献や論文を読んだりしてみよう、という意識につながらない事になる。研究の素質があるかどうかとは全く関係為しに、指導する際には「この学生は研究についてどのような像を描いているのか」を見る必要がある。というより、指導教官がああしろこうしろ云う前に、具体的な意図を持って活動している研究の全体像そのものを見る必要がある。で、「俺にも言わせてくれ」が出てきた段階で、ようやく「ああしろこうしろ」が成り立つ。その前に本を放り込んで「これで論文書け」というのは、タブン、たいがい不味いやり方だと思う。

 まあともかく、そんなわけで、「どうすればやりたいことを決められるのか」を考える事には、「具体的な方策そのものではない、何らかの道具立て」を用意するのが手っ取り早い。仮にそれを論文の主題を決めるのに使わずとも、暗中模索するよりはよほど研究における主体性をつくりやすい。今日はそれを紹介しようと思ってこの記事を書いている。

 先々週の火曜日の講義から、しばしば「マンダラート」なる道具立てをT教授から紹介され、実際にみんなで使用している。
 マンダラートとは何ぞや? これは一種の連想ゲームのようなものなのだが、名前の通り曼荼羅のような9マスの表のセンターに、とりあえず何に関する研究をしたいか、を放り込む。
 で、センターに放り込んだ単語を眺めながら、残りの9マスを埋めていくのである。
 「こんなことか?」と思われるかもしれない。だがこの作業はそんなに単純ではなく、「本当に完成された曼荼羅を作り上げる」つもりになることで、いくつかの難題がやっている者に自動的に突きつけるようになっている。あるいは、「当然やってもいいこと」を自覚しておく必要がある。ランダムに思い付きを書いて、マスが埋まればそれでよし、というつもりでやるとあんまり身にならない。

まずは百聞はナントカということで、俺が講義に使ったものを貼っとこう。
この主題は単なる思い付きだけど、日頃これを扱っていると「めんどくさいな」と思う主題である。
研究とは① マンダラートと研究の流れ_b0028176_12111551.jpg


鍵になるのは次の要素だ。
・数の制約
 これには様々な利点があって、気軽にやれること、いつやめればいいかを自動的に指定してくれること、書いておきたいことと書かなくて良いことを意識することで自動的に知識が(ある概念から見て)構造化されること、などが挙げられる。
 余談だが、こうした自動的な制約を、たとえば認知科学者はdistributed cognitionと呼んでみたり、あるいは、「気軽にやれる」が要求されるレベルの活動から次第に「完成された曼荼羅をつくる」こと、さらに「やりたいことの全体像を描く」という活動レベルの推移のことをバーバラ・ロゴフがguided participationと呼んだりしているのだろう、ということをちまちまF氏が話題に出した単語の理解のために示しておこう。
・位置関係の情報
例えば、書いた二マスが対立項だったら、中心のテーマに対して対極の位置に置き換えたり、似た概念は同一列にしたり、二つのマスから連想あるいは止揚されたものをそのマスの間に書いたり、と、位置関係にはこだわった方が良い。これは意識してやる必要がある。
・サブマンダラートはどんどん作ってよい
数の制約のところで「構造化」について触れたけれども、この場で書かなくていい事にも二種類あって、
「先に思いついた単語があったんだけど、もっと大きな包括概念でまとめた」というのと、
「ここから色々連想できそうだけど、他のマスの概念の大きさからいってこれを横に書くわけにはいかない」というのがある。
後者をどうしても書きたいと思ったら、そこからより具体的な研究の題材が浮かび上がるかも知れないので、そのうしろに何かが省略されてるマスを中心に据えて、新しいマンダラートを作るべきである。
・中心に据えるものはだんだん具体的に
全く手がかりがないのであれば中心に抽象概念を据えるのもいいが、具体的に考えられるのであれば初めから具体的にするべきである。


 マンダラートとは別に、書く時に研究を意識する上で参考になったこともある。
 この講義は「外在化と共有」についてのものなので、上の図で中心になっている「ボタン(押しボタン)」に関しても、ボタンについての上手い外在化と共有ってどういうことか、を意識しなくてはならない。外在化というのは、個人の内面のスキーマの処理だけでは解決のために不十分な認知的齟齬を、如何に人間の外に具体的な情報を設置することで解決するか、という文脈で語られる。
 私の問題意識はこうだ。
 ボタンについているラベルから我々が想像する「ボタンを押した結果」とデザイナーが意図した結果はすれ違うことがある。
 で、初めからそれがずれないようにする事を考えるのは意味がないわけじゃないが、人間の認知はマネジメント的なので、ボタンのラベルそのものを書き換えるとか、ボタンを読み取るスキーマを書き換えるとか、そういったことを意識することによって、ちゃんとボタンを使用できるようになることなどいくらでもある。あるいは、ボタンの意味を解釈したはいいが、自分の解釈が信用できないので、ボタンを使わずに他の機能、たとえばアプリケーションならメニューの方から使うとか、そういったマネジメントをすることになる。だから、あんまり酷いのを除いて、万人に使えるボタンを考えることは他の人に任せたい。
 俺が問題意識として持っていたのは、期待したのとボタンを押した結果が違っていた→ボタンのラベルをどう解釈すればいいかを形づくる、をどう“外在化と共有”するかという問題である。言い換えれば、信頼できないラベルを信頼できるようにする上手いやり方。この問題は当然、メンタルモデルの問題にだだ被りになる。
 ただ、それを直接的にどうウンウン考えても解決するまい。これを取り扱って成功するかどうかもわからない。というか、とっかかりがなさすぎる。何にしてもこの図を書いた段階でT教授に勧められたのは、ひとまずボタンの歴史をひもといてみたら如何か、ということだった。その中で、ボタンについての上手い外在化と共有について考えてみたらどうかな、というわけだ。ここでボタンの「上手いラベルの貼り方」を語るのでは全く芸がないわけで、個々人がボタンについてのメンタルモデルをまともにしていく中でどう上手い外在化と共有をしてきたかを見る必要がある。これなら見れるからだ。
 というところで今はボタンの定義について考えなきゃならない。いつからどの歴史を当たるのかがわからないからだ。ボタンというモノと同様に働いているのは何か、ということだ。定義を考え、実際の歴史を当たり、そこで具体的な「お、これは外在化と共有のつもりでやっている事ではないか」ということをとりあえずまとめれば、それはそれで論文になってしまうのかも知れない。具体的な問題意識にまつわる話題を論文の中にひとまとめに押し込む必要はないわけだ。ひとまとめにするのは難しいなぁと唸って時間を無駄にするまえに、ひとまとめにせざるを得ない理由を明確にし、後につながるようにする方策を考えた方が良い。

現段階で研究に必要なことを聞いたので、纏めておこう。
・目的という制約を考える。
 具体物をとりあえずマンダラートの中心に据えてから、何についての研究をそもそもやるつもりだったのかと見比べて、表中の語句表現を適切なものに書き換える必要がある。
・アイデアや切り口を具体的にする。
 意味があるかどうかではなく、意味がありそうかどうか、を考え、アイデアを持ってくる。
・今できることと今回できないことを絞る。
 「今回はやらない」あるいは「人任せにする」というのはある種の認知的道具であり、自分の心を整理し納得させる効能を持つ。
・やってもしょうがないことを除外する。
 やってもしょうがないこととは、いわゆる「先行研究」と言う奴である。研究は足元をじっくり踏み固める事で、積み重ねが可能になる。逆に言うと、既に研究として公開しても良いと認められているレベルのことは踏み固まっているので、二回やる必要はないわけだ。もちろん、そのことに関する別の視点からの言及は、それは元のとは別の情報なので意味があるけど。
 これを言い換えると、先行研究を追える程度には、具体的な切り口が用意されている必要があるということだ。

 例えば、勝手に引用してしまうことになって申し訳ないんだけど、俺と同じく講義に参加しているHさんを一通り例に出してみたい。Hさんが初めにマンダラートの中心に据えたのは「アロマオイルの調合」であり、最終的な問題意識は「上手い香りの表現」のための外在化と共有のやり方である。
 マンダラートの一つに据えたのは「キャディプロファイル」という、香り成分の組成を色(効能と対応する)で示したものだが、これを使いながらする活動が香りの“イメージ”通りの調合についてどこまで役に立っているかというと大いに疑問がある、ということを、Hさんは「占い師みたいになってる」という表現で端的に表した。香りの組成と実際に感じる香りのイメージは線形的に相関するわけでない。キャディプロファイルの使い方は「実際に必要なことはこれでわかる」というより、本日のラッキーアイテムよろしく、「あなたに必要なのはこの組成の香りよ」ということを見せられた側が納得する、という形になっているのだろうと思う。
 そこで、T教授が指針として示したのは、キャディプロファイルで出来ていることと出来ていないことを取り上げよう、という事だ。「今できることと今できないことを絞る」という観点からみると、具体的な「キャディプロファイル」を通して何かを見ることは重要である。キャディプロファイルを通してある一般化された事実を抽出するのではなく、「キャディプロファイルという手段だとこういう良いところと悪いところがある」という事実を示すのである。我々は一般化欲という魔物から何とかストイックに身を守らねばならない。一方で、語れるはずのことを語らないことが問題になったりもするが、それは具体的眼鏡を用意することの善し悪しである。我々はキャディプロファイルという道具立てを用意する際に、「なぜキャディプロファイルというものが眼鏡として有効なのか」ということを考えて、そこにのめり込みがちになる。しかし、ここはグッとこらえて、とりあえず眺めてみるべき段階なのか、なぜそれが有効なのかを語らなくてはならない段階なのかを整理する必要がある。よく研究発表の時に「なぜその視点を選んだのか」を問われるが、必ずしもそのイメージが初めからあるべきだというわけではない。
 次に、「キャディプロファイルというものにまつわる活動を観察するうちにわかった、いい香りの表現に有効と思われることとそうでないこと」を考える。真っ先に挙げられるのはメタファーであり、これも様々な表現があるが、複雑な表現をいくつも使うより、できるだけ端的に示せる比喩が欲しい、というスタンスに立ってみよう、と仮決めする。
 そこで参考にできるのは何か? これが研究の核となるアイデアである。この場合は「研究の横糸」でもある。ここから先はさすがにあまり具体的には書けそうにない。ただ、少なくともここで言えるのは、何か新しいモノを作ろうとしても大概無理なので、何かから取材するという発想はツールとして重要である、ということだ。似ているけど全く別分野のものから取ってくることもあるので、ここで研究という文脈から一旦離れる必要があったりもする。

 とりあえずマンダラートの使い方について一通り書いてきたが、これはやりたいことの全体像をつかむというより、像の中の一つの枝を作ってみることで、他の枝の張り方に慣れるという側面がある。修論どうしようかというレベルの全体像を描くためには、別の道具立てが必要になる。道具として例として挙がるのはマインドマップなのだが、それについてはまた後日書くことにしよう。

今のところイメージしている研究と道具の流れは以下の通りである。

何をしてみたいかを考えるトレーニング:マンダラート
考えてみたいことを決定するために、網羅的に書く:マインドマップ
取材とメモライズ: ワードプロセッサ、ただのメモ帳?
この辺はまだよくわからない
カードを使って論理展開を考える:アイデアプロセッサ
論理展開を章立てし、カードを使っているとごちゃごちゃしすぎるレベルの細かい部分を肉付けする:アウトラインプロセッサ
文章を成型する:ワードプロセッサ

by styx_rynex_syrinx | 2009-12-04 13:29

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