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支援と支配   

2007年 05月 11日

続き。というか改めて。

ある登校拒否のA子がいました。
家族の事を顧みない親、
そして表では仲良くやっているけど
裏では陰口や競争心たっぷりのクラスメイト。
そんな中で彼女の「内面の他者」も外的対象である他者も
自分を統制・支配・非難する存在になっていった、というのです。

登校拒否の彼女はクラスメイトからの
「頑張って欲しい」「立ち直って欲しい」という期待、
また、実際の支援に対して、
必死に応えようとし、
自分に「頑張らなきゃ」「頑張らなきゃ」と言い聞かせますが、
無理やり自分を制御しようとして
不自然な態度や行動になってしまったりします。
 この辺り、敢えて自分と比して考えるなら
 大学で周囲の人間にどのように自分を出していくか戸惑って、
 不自然な言動や態度を取ってしまうあたり
 自分と似通っている部分はあるのでしょう。
 また、「やらなければ」「やるべき」だけあって、
 「やりたい」無くして自分を制御しようとすると
 必ず支障が出るのはここ数年で骨身に染みた所でもあります。
 自分の場合は周囲の期待、という脈絡ではありませんが。
 そもそも他者の裏側を信じられなくて登校拒否になったのに、
 その他者の支援を信じられるわけがない、
 というのもありますがね。
 その事には彼女はこの時点では気付いていません。
 気付いていても「信じなくちゃいけないんだ」としか
 思わないでしょう。

彼女自身、どうすればぎこちなくなくなるか、
については言葉で理解しています。
つまり、素直になればいい、という事。
しかし、自分の素直をありのままに受け止めてくれる、
という信頼がある相手にのみ
それは可能であるので、
それができないA子は現時点では素直にはなれません。
 この場合のありのままに受け止めてくれる、
 というのはどうなんでしょうね。
 俺にとっては、何でも認めてくれる、というのとは違う。
 自分の意見を対等な人間として、ストレートに褒めるなり
 貶すなりしてくれる人、 という所でしょうか。
 何でもかんでも理論的な背景なしに褒められたり許容されたりすると、
 自分の意見をニュートラルな意見として認めてくれていないのでは、
 という不安に駆られる事も結構あるので、
 例えば駄目な自分を「駄目でもいいんだよ」
 という台詞はあまり信用しがたいわけです。
 A子の場合は、明記はされていませんが、
 文脈から普通に考えると
 「学校に行きたくない、という感情を認めて、
 自分に期待をしない事」
 という事でしょうかね。
 俺の場合で考えると、
 「学校に行きたくないなら行かなくていいんだよ」
 とだけ言われるとやはり「う~ん…」と思ってしまう。
 「学校に行きたくないって気持ちはあっていいし、
 別の道を進みたいのではないか、と自分に問うのはいい。
 ただしそれをいつまでも迷っていられるわけではないのだから
 別の道を考えたり、自主的に行かない事を決断するのであれば
 それを考える事に全力を注ぎ、
 決断した後はそれなりの責任を負いなさい」
 とでも言われるのであれば、
 ああ、この人は本心からそういっているのだな、と安堵する。
 自分が「絶対その評価違う」と思うような褒め方をされると
 「何で!?」と思ってしまうので、
 内面の理解というか、
 自分が自分をどう見ているかの理解を求める傾向は
 大きいのかもしれません。

で、まあ当然と言いますか、
無理な統制に体がついていかず、周囲の期待に応えられないA子は、
「内面の他者」にそのことを糾弾され、
周囲に対してごめんなさいを繰り返すしかなく、
同時に内面の他者が周囲に再投影されて
みんなも自分を非難して、
「なんであいつだけあんな甘ったれてるんだ」
と思われてるのではないか、と思うわけですね。
それでもその一方で、学校行事が開催される中で
今までは他者を拒絶するだけだったA子が、
周囲に「受け入れて欲しい」と願うわけです。
 まあ某氏と共通点はあるような気はします。
 周囲の(というか俺らの)叱咤激励に対して、
 ごめんなさいばっかり返していた。
 A子の「受け入れて欲しい」は、
 ただ一方的に都合よく甘えられる存在を求めていた
 「計算ずくの甘え」というようにも見えますが、
 少なくとも拒絶するだけではなくなった、
 という評を著者はしています。
 その「都合よく許容してくれる相手を求める」というスタンスに
 俺たちは「ふざけるな」と返したわけですけども。
 実際それ自体は段階として必要ではあるのでしょう。

周囲の人の何気ない一言の裏に常に不安を感じていた彼女は、
ここにきて「反抗したい」という気持ちの芽生えを見せます。
「支える眼差し」が、「乱反射」して「支配する眼差し」としても
入射してくる状況で、
薄々、「支える眼差し」自体が自分を圧迫するものであることには
気付き始めているのでしょうね。
相手が「支えてくれる存在」と同時に「支配的な存在」でもあり、
これを著者は「対象関係の混乱」であると述べています。
 こういう気持ちがなければ、
 自主的に何かを成す事はできないのですね。
 依存がなければ反抗も自立もない、と著者は述べていますが、
 俺の場合をこの文献になぞらえて記述するのであれば、
 去年の正月に「甘えと反抗」をやって、
 そこでガツンと「真っ向から自分の言葉を受け止め」られて、
 それで信頼が出来たのだ、という事になるのでしょうか。
 自分の中にある不満を認められなければ、そのままです。
 「対象関係の混乱」はそれこそ日常的に
 俺の中で起きている事ではあります。
 Fが後で言ったところでは、
 「自分をエンパワーメントする「内面の他者」が多ければ
 それを生きる糧とする事ができる。
 ただ実際の所は、支配的な他者が全く居ない状況というのも
 あまり好ましくはないのではないか」
 とも言っているのですが、
 自分の子供時代を振り返ってみると
 一方では他者不在(服装や振る舞い)、
 もう一方では「支配的な他者」の過多、
 という両極端な在り方だったように思いますね。
 今もそうではあると思いますが、
 流石に多少は統合されてきたとも思います。
 俺の場合自分をエンパワーメントする他者というのは、
 小説の中の人物であったり(笑)、
 尊敬する著名人や友人であったりと様々です。
 昔よりは格段に多くなったし、
 それを中学から大学にかけて形成して来れた自覚はあります。
 同時に支配的な他者も形成して来たけど、これは当然の事ですね。
 
で、A子は「反抗」を自覚していく中で
学校行事に積極的に参加し、
「他者を支えられるようになりたい」という
「欲」を持つようになるわけです。
著者は、これは「他者を支配したい」という欲である
という分析をします。
他者の依存に応える事で、この人には私がいなくてはならない、
私はこの人に必要とされているのだ、という
依存関係の上に成り立った「歪んだ」自己肯定だというわけです。
要するに以前にも話題になった共依存ですな。
得てして支配的な他者に囲まれて生きてきた人は、
支配的な側に回ると過剰に他者を支配
(単に決まりを押し付けて周囲を統制する形をとったり、
共依存を誘発する、つまり世話を焼く事で依存する側を支配する形での
他者への過剰な世話焼きという形をとることもある)
したがる傾向があるようです。一種の意趣返しかも知れません。
構造的には「支配」そのものには捕らわれっぱなしなので、
相変わらず周囲の支配的な目は恐れるのですね。
 前にも書きましたが、この「意趣返し」の共依存、
 俺も例に漏れずそういう所にはまり込みやすい傾向が
 あるのではないかと思っています。
 決まりを押し付けたり、世話を焼いたりする所もあった。
 ただ、この場合も「信頼して欲しい」と思っている事は事実なので、
 それを否定しては行けないんですね。
 信頼は「買う」んじゃなくて、後から付いてくるもの。

最終的にA子は、第二段階の登校拒否を、
つまり、自分の中の反抗を肯定し、
「期待に応えたくない」という意味合いを持った
登校拒否をする事になります。
常にクラスメイトの期待の裏には支配的な眼差しがあり、
それがA子を追い詰めてきたものの正体だったのだ、というのですね。
「期待と支配は表裏一体」と断言されると納得の行かない諸兄も
多かろうと思いますけれども。
相手が「そうしたい」と思えなければ、支援の意味はないんですね。

少し前の話になるけど、
「A子が甘えているのだから、自分も甘えていいのではないか」
とクラスメイトが思っているのではないか、というのは、
自分と同じ行動原理を相手も持っている、
という事を前提としている所に誤謬があり、
実際A子の行動がそこまでクラスメイトの行動を
左右するわけではありません。
それに、相手は本当に来たくて来ているのかも知れない。
それは相手の事を相手として理解しようとしないと判断が出来ませんが、
著者が言うように、A子は
「友達に一度も関心をもったことがな」かったのでしょう。
 自意識過剰と一刀に切り捨てる事もできますが、
 実際自分にもそういう傾向が大いにあります。
 それが間違いである事に気付けている分、救いはあるのでしょうけど。
 レジュメに書いた事の引用ですが、
 そして以前にも一回どこかで書いたような気がしますが、
 「(ここで言う)友達に一度も関心をもったことがな」い人は、
 大抵の場合、他者の無神経さを疎い、
 自分と関係ない他者同士のふるまいに対しても、
 「B子はC子にあんな無神経なことを言っている、
 B子は全く他人の事を考えていない」
 という糾弾をしがちなのではないか、と思います。
 自分がそうだったから、というだけの根拠の希薄な発想ですけどね。
 他人の目を気にする、他人をとにかく(表面上は)傷つけないようにする、
 といった「一見他者のことを考えているように見えて、
 そうでもない」ふるまいを、
 そうであるように錯覚し、「自分は他者の事を考えている」と
 自己肯定を得るわけです。
 自分の中にある判断基準によって「無神経な発言」を拾い、
 他者を糾弾することさえあるわけだ。
 だからそういう場合、
 「お前の文面には他人がいないんだ」と言われると
 「え!?」となってしまう事が多いのじゃないかと思うんですが、
 誰かさんを見ていると必ずしもそうではないのか、
 いや単にその疑問すら肯定できないだけなのか、
 何にしても、「自意識過剰」というものには、
 単に余計な事を気にする愚かしい性格、というよくある批判とは別に、
 一種の「傲慢性」が潜んでいる、と指摘する事もできましょう。
 問題はそれをどう解決するか…という所ですけど。

最終的にA子は担任に対して、クラスメイトに対して、
「期待に応えたくない」という本音を肯定し、
「第二段階目の登校拒否」という形でそれを表す「ことに成功します」。
担任の「頑張りすぎているので班長に当選しないようにしよう」
という気配りが裏目に出たり、
彼女を支援してきた友達から「甘ったれないで」という本音が出たり、
そういった種種のきっかけがあったわけですが、
信頼が壊れた教師を彼女は「糾弾」し、
反抗と同時に「先生のせいで登校拒否になったんだから
出席が足りなくても先生が無理をして卒業できるようにしろ」
という甘えも見せます。
ここで担任教師は絶望し、「相手の気が済むまで待つ」
という対応を取ります。要するに聞き流すって事ですね。
 「それは出来ないし、そんな事はしたくない。
 自力で卒業したいと思えるようになったのなら
 俺たちの支援なしできちんと学校に来い」
 というのがここで言う「彼女の甘えを正面から受け取ってくれる」
 だったのか、
 或いは「わかった、自分のやり方はこういう所が間違っていた。
 A子が自分で進む事を信じずに余計な世話をしてしまったから
 その分俺が何とかしてみる」
 だったのかが俺の中では明瞭としませんが、
 後者の場合、どういうわけで「余計な世話」だったのか
 理解した状態で言わないと
 ただの建前だと受けとられる可能性が高い気がします。
 この段階で彼女の内面をちゃんと理解するのは至難の技でしょうね。
 とはいえ、前者の判断だけを即断で取れるかどうかというのも
 不安が残りますね。
 自分の非を認めつつも、相手を「支援(支配)」の頚木から開放するのが
 ここでの理想的な対応なんだと思います。
 カウンセラなどは得てしてそういう
 「糾弾」の修羅場に遭遇する事が多いそうですが、
 そういう経緯を理解し、
 さらにそれに相手が本当に当て嵌まるのかどうかも
 判断できなければ対応は至難の業でしょうね…。
 あと、彼女にまだ残されているのは、
 「自分に素直である」事と「社会的な場における自己の表現の仕方」との
 バランスをどうつけるかというのがまだまだこれから、て事ですね。

by styx_rynex_syrinx | 2007-05-11 23:32

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