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真正の学びを創造する(1)   

2007年 12月 19日

半分は終わったのですが、どうしても文章が長くなる…。内容が濃すぎる。
文献を追っていって、それに逐一自分の解釈を付け加えるというのは、
厳密に見ていくためには必要といえば必要なんですけど。
おまけに眠気が。ねむいので仮眠するお…。

さて、先日大まかに文献の内容は書きましたが
もうちょい掘り下げて書いてみましょう。


※真正の学びを創造する~学びへの誘い 補章より

●数学をわかる、ということ
ラカトシュとポリアの言論~
・数学とは固定したものではなく、コミュニティの中での推測と反証、演繹と帰納のジグザグ道こそが数学の本来の発展・理解の形である。そのために自分の推論についての勇気と慎み深さ、自制が必要である
・知的権威はコミュニティ全体が持つ
学校の数学
・教師と教科書、頭のいい子が知的権威を持ち、既に固定された定理や公理を勉強する。その方が「情緒的バランスを崩」さずに済む。
→本来の数学の発展の形を、学校教育の場に持ち込む可能性はあるのか?

 初めにラカトシュという人が『数学的発見の論理』で教師に「私は意識的な推論を尊重したい。というのは、意識的な推論は勇気と慎み深さという人間の最も良い資質から生まれるものだからである」と言わせている。で、これはどういうことなんだろう、という話なんですが。
 数学で単に「過程を重視する」と言っても、定理の教科書に書いてあるような証明方法を見て、「こんなの誰がぱっと思いつくんだ?」とか、「この証明を自分で一から作れって言ったって無理だし、覚えるしかないんじゃないか? 結局暗記じゃん」という感覚を抱いた事は、ちょっとだけ高校数学をまじめに勉強しようとした人なら誰しもあるのではないかな、と。
 >「素朴な推測や反証は、完成した演繹構造(つまり、所謂「証明」や「解法」の手順)のなかにはない。発見というジグザグ道は、最終結果の中に見いだすことはできない」
 とあるように、数学を「正しく解く」過程は、数学をわかっていく過程を表しているわけではない。証明を丸暗記しただけでも、証明を逐一、ああここではこの定理を使ってるな、とか、この定理を使えばいいんだな、という見方で見ていくだけでも、満足に「わかった!」と言えるわけではない。まあこれとはちょっと違う趣旨なんですが、
 >「わかる」とは、最終的な事柄でも確定した事柄でもない。というのは、証明に関してさえ、その証明がよりどころとする仮設(これを数学者は公理(個人的に傍点を付けたいところ)と呼ぶ)は、数学のディスコース・コミュニティ(論じ合う共同体)において再検討の余地を持ち続けるからである。
 これは数学に限った事ではない、というのは以前書いた通りで、自然科学でもその通りです。個人的には、全てをコミュニティに頼らずとも、コミュニティでの言論を土台にして個人の中で自分の思考に対する反例を挙げながら思考を重ねていく能力が身に付けば学問的な義務教育の目的は達成されるかなと思ってるんですが、それってコミュニティでやるのよりも難しいかも知れませんね。俺でも無理だ。
 ちなみによくわからない数学用語の定義は、以下のような感じらしいです。

公理:証明のしようがない、「こういうことでいいんじゃないか」という約束による理。1+1=2を証明するのが無理なのと一緒。反例により訂正されたり、新たに作られたりする。(複素数の発生など)
定理:公理を前提として論理的に導き出された理。もちろん前提を正しいとすれば証明ができる。
定義:理論上の必要事項として決められる理。正しいか間違っているかは論じられず、定義が適切かどうかが論じられる。
原理:公理の物理バージョン。ニュートンの力の方程式など? 反例によって訂正される。(量子力学の発生など)
法則:実験などから導き出された理。それぞれの法則をうまく説明できる形で原理が考案され、原理によって説明できない法則(反例)の発見によって原理が訂正される。
演繹:全体的に当てはまる定理から、より個々のレベルでの事象を証明すること。
帰納:個々のレベルでの事象から、それを一種のきまりごととして一般化する事。

 演繹と帰納はともかく、高校数学・物理でこの定義を分かってるかどうかって相当影響があるような記がするんですけどねえ…。何ら説明はされないわけだ。ここでは公理は単に前提となる一旦逐一の証明が必要でなくなった理、という意味で使われているようですが。まあとにかく、そういう推論の過程のために何で勇気、慎み深さ、自制が必要かというと、それは自分の仮定や結論が不適切かもしれない事を覚悟する勇気、合理的な根拠を指摘された際に自論を訂正する慎み深さ、合理的な根拠なしに自論を訂正しない自制であるという事なんです。これって「言論」という畏まったように聞こえる場だけの話ではないですよね。数学的議論を通してコミュニケーション能力も身に付いてしまうかも知れません。まあそれにはまだまだ壁があることは、終盤(P226以降)で指摘されるわけですが。というのはやはり、この活動が情緒的バランスを崩しかねない(P192)リスクを含んでいるからでしょう。自分の意見が否定される危険性を孕む言論はしない方が楽だ、ということです。
 一方学校では対照的に、知的権威を教師、教科書、あるいは「できのいい」子に握られ、あるいは周辺の子どもたちがそれらに預ける(P226)。数学する=教師のルールに従う事、数学をわかること=教師の発問に当てはめるべきルールを上手く思い出し選択する事。真理は教師がその通りだと言った時に決まる。数学の学問的な性質はさておき、そういった環境に慣れている以上それが子どもたちにとっての学校での真実であるということですね。教師がそういう環境を押し付けるという面だけでなく、そういうわかりかたに逃避したい面もある、というところが味噌だと思います。勿論、学校という制度の性質、あるいは学校と他の社会制度との関係の影響もありますが。
 (アメリカの)数学教育委員会などが上記のような、主張が妥当かどうかを討議したりする数学を勧めているそうですが、しかしこうした数学が教室のなかでどのようなものになるのかを扱った研究は殆どないのだといいます。つまりは、その研究をするという事でしょうね。公立学校で、そうした勇気と慎み深さとともに学問としての数学を行なう可能性はあるのか? という。本当にそれが出来たら、俺にとっての数学教育の理想にかなり近いものになりそうです。
 実際にそれを行なう際には、学問的に学びわかるためには、教師と生徒の役割と責任を再定義して「参加構造」をつくることができて、具体的なやりとりのパターンも教師が率先して作ることができる、のだそうですがどういう背景があるのかは分かりません。実際に授業を見るしかないです。参加構造に関しては、佐伯さんの文化への参加論とそう変わる物ではないっぽいですね。同じコミュニティを別の言葉で言っているように思えます。とにかく「わかる、考える、考え直す、説明する、問う、答える」という活動を再定義するには、授業で教える内容とは別に、教師と生徒の役割を再定義する必要があるのだ、とランパートは言っています。



●授業実践の記述とその解釈-理論と実践の関係
この授業記録の特徴
・理論の検証と授業実践の開発を同時に相互作用的に行なう
・実践とその分析に社会科学的アプローチと認識論的議論の双方を利用
・研究に基づく実践は意図的に通常の授業とは質を変えている
基盤になる方法論
・アクションリサーチ…主に研究者自らが実践を行い、観察し、分析することで、既にある理論を実践の条件のもとにさらし、理論が実践に即しているか、また逆に理論を活用する実践的活動をどう作るか、という検討を行なう
・解釈的社会科学…それぞれの人々の活動の意味を多義的に解釈する事で、特定の活動の特徴について理解を促す
ランパートの指摘
・授業分析に使う知識は、授業を行なうのに用いた知識とまったく同じ訳ではない
・研究者が理論的に命題を導き出し、その命題に従って実践をすれば授業が直接的に改善する、というのは非現実的である…単純な教育方法論の限界
→授業分析の際は首尾一貫した視野から授業で起こった、あるいは起こるはずの事柄を眺められる
 授業実践においては教師はそれぞれ十全に根拠はあるが論理的に相互に葛藤する行動の中から、一つの行動を選択する
 授業実践を正当化する論理的議論の枠組みを作るには、授業実践の起こりえたはずの複合的な行動についての根拠や正当性を犠牲にして、一つの理論

理論と実践は違うものだ、という言説は、二通りの使われ方をしますね。一つは、理論など考えている暇がないくらいに教室が忙しく、実践を形式的な方法論に沿ったものにせざるを得ないときにある種の言い訳として使用される場合、もう一つは実際に、理論どおりにやったとしても教師によって結果が変わってきたりする時に、理論の限界を説明する場合。実際に理論と実践の埋め合わせをしよう、という話になった時に、理論をとりあえず脇に置いておいたり、最終的に理論の全く生きていない実践をするということはいけないと言ったり、いや理論は脇に置いておいていいんだ、という二極論を言ったりしてお茶を濁す場合が多い気がしますが、そういうしっかりとメスを入れられない所に、授業分析と実践の思考がじゃあ実際にはどうであるのか、という考えを述べている所が俺にとっては新しいなと感じる所です。一部の文章の意味があんまりわかりやすいものではありませんでしたが。

●問題は質問と同一ではなく、解決は答えと同一ではない-実際にやりとりのパターンを作るにあたって
教室での推測で為された事
・出てきた結論だけではなく、その方略と前提となった仮定の正当性を問う必要がある
・教室での議論の深さの予測、自分達の役割の把握
・はじめは生徒の考えの広がりがわかり、なにができ、どのようにして理解するのかを明確にできる問題を選ぶ
・次に教室のすべての生徒が数学の仮説を生成し検証するのにとりくめる問題を選ぶ。解答が正しいかどうかという基準はあるが、既知のアルゴリズムを単純にあてはめるだけでは解決できない問題であることで、解決手続きを考える立場に生徒や教師が置かれる
ex)5^4,6^4,7^4の末尾の数字の検討→7^5の検証:7^(4+1)と(7^4)^2はどちらが7^5?→(数学的帰納論法、指数性質の検討)
推測を導く前提を明確にし弁護することと、推論と反駁、帰納と演繹を繰り返して仮説を立てることの重要性を、問題の解法を教師と生徒が論じ合う事で伝える
・解法の発言者を明示(あくまで生徒の意見であり、まだ権威付けされたものではないということ)
・誤りの指摘と理由説明(発言者でなくてもよい=他者の主張に対する解釈を認める)
・発言者の名指し(論理への反駁、協働活動としての思考)
・?マーク(正答だとは限らず、解法が合理的かどうかもわからないことの強調)
・「○○ちゃんの仮説に質問したい」(「(何故)違うと思う(か)」という文脈でないので正誤の判断よりも論理的な反駁の形を取りやすい)
・解答の推理の過程を説明させる
・教師も議論に参加し、数学に熟達した者のモデルを示す…教師が使用する前提知識は明確にしておく
「ジグザグ道を縦走する」ことは「あらかじめ確定したパターンを示す」事とは違う
…正答を発見するために使う最短の法則の説明だけでは不十分であり、法則の検討の過程を示し、法則自体の検討、生徒の証明の評価をすることが必要



●実際の授業実践の記録

・指数の価値=大きな数の桁的な大きさを直接数字で表しその数字を利用する事によって、新たな数量関係を扱えるようになり、心的操作が単純化される
→かけ算と足し算は本来別のものであるはずなのに、かけ算を足し算で扱えることをどう証明できるだろうか?
・数学を教えることと、数学について教えること(+数学を通して教える事)
ツールや用語、記号の知識の価値=その技術を使わないでする議論とは実質的に異なる(大抵は抽象化、単純化される)議論を可能にする…そのツールを使う事、作ることという相互作用は数学をわかる過程

 まずは1^2から100^2の平方表を自分達で作ることから指数の単元を始めて、表の中にパターンを発見する事を求めたとありますが、これは教室のすべての生徒が数学の仮説を生成し検証するのにとりくめる問題であると言えます。この時、彼らは複数の数の末尾の桁に焦点をあてることによって累乗のパターンについて話し合った方が良いという考えを繰り広げ、これは「ツールの一つである」といわれていますが、おそらく彼らは先に末尾の数字にパターンが存在することを、表の全体を見たり、表の一部に注目したりという試行錯誤をするうちにはっと気付き、末尾の桁に焦点を当てるべきだという一つの考えをまとめたのでしょう。さらに同時に余計な部分を捨象する事によって法則性を浮き彫りにすることの機能についても気付いたのではないかと思います。これが「ツール」と表記される所以ですね。
 この帰納的推論がまとまったら、そのパターンをさらに一般化することで、a^n (n>2)の場合の場合にも適用できるという最終目的のために、まずは具体的な5^4、6^4、7^4の末尾の数字を考えるわけです。これが「解答が正しいかどうかという基準はあるが、既知のアルゴリズムを単純にあてはめるだけでは解決できない問題」ですね。前提となる単純なアルゴリズムの知識を疑い、改めて立てられた定理によって演繹的に求める段階です。
 5^4については、まずはナリニアが口火を切りました。5^2=25→25^2=?とすれば、その数自体を出す事で最後の桁は分かります。しかしアリアンナがそれについて「そうよ、5を2回2乗するのよ」と言いました。同じようですが、少々違うようです。5を二乗したら5にはなりませんから、「二回目の二乗」は一回目のものとはまた別に5を用意するのだろう、と言葉に従って考えればなるわけです。これはアリアンナの内面ではどういう思考が働いているのでしょうか? アリアンナは前回の授業ではx^n=x*nだと解釈していましたから、前回と同じ事を言っているのではないか、という予測がつくわけです。俺としては初めから末尾が5である数を何度5倍しても、10の位以上の部分と末尾をそれぞれ分けて5倍した際に10の位以上の部分が末尾に影響することはないことは直感的なレベルになるまで分かっているし、例えば5の二乗を二回=5×5×5という考え(勘違いだけど、5の二乗とは前の数にその数をかけることであるという仮定義に従う限りにおいてこの考えは正しい。5の2乗と5を5倍するという言葉は、心的操作において異なります)はまだ分かりますが、マルタの指摘のように5×5+5×5になったらすぐに計算して末尾が0になるから違うだろう、という思考をしてしまうわけです。そうすると自分の思考を基準にしてアリアンナの表現の違いを間違えて捉えてしまいそうですが、マルタはそうではなく、きちんと字面どおりに解釈してそのまま発言しました。
マルタは、5を2乗してそれを2倍すると思っているのではないかという、アリアンナの意見に対する解釈を述べます。しかしそれにはアリアンナが反駁し、2乗してもう一度2乗するのであって、5の2乗を2倍するのだとしたら、それは足し算して50になる、(そうではなくてかけるのだ)といいます。この時点でアリアンナは前回と同じような解釈はしてないことが明らかになりました。そしてより手順を明確にするために、ナリニアが「5を二乗して、それから『その答えを』二乗するのだ」と付け加えます。さらに最終的にマルタは、アリアンナの主張を補い、ナリニアの答えを二乗という言葉を使わずに「四乗」を定義するという意味合いで発言します。「私は両方ともわかるわ。5を5倍して、もう一度5を5倍するわ。でも、それを足すのではなくて、かけるのよ。」このおかげで、前回の「二乗は2倍を意味する」という解釈が完全に訂正され、4乗についての話題を取り扱う土台になりました。
 さらに、先ほど書いた十の位以上の部分の捨象、ということのきっかけになる発言が現れます。サムですね。その主張に対して、5の倍数の末尾が5か0になることに注目したり、そこから末尾が0にならない事を付け加えることで説明したり、実例を挙げたりしますが、一番すっきりした発言をしたのがカールです。つまり、俺がさきほど書いたような事ですね。初めの数は5である、末尾が5である数を5倍した末尾は必ず5である(十の位以上の数字は無視可)、従って5を何乗(正の数乗に限るが)しても5になる、という数学的帰納法そのものの証明をやってみせたわけです。これらはある領域における法則を、それとは少々共通点がありつつも異なる実例に対して演繹したり、その反例の穴をさらに法則の状況に限定を付け加える事で埋めたりしているうちに、最終的に最もその話題に有効で単純な法則を帰納法で導出する、という作業です。ジグザグですね。6も同様でしたが、7はどうなるかについては、「a^nは必ず末尾がaになる」としていいのか、たまたまa^2の末尾がaであったために起こっていただけの話なのか、というのが、そのまま表現はされていませんが重要な課題になるわけです。数学を分かっていく途中の段階では、頭の中ではその判断がなされないまま、a^nは必ず末尾がaになるという定理がそのまま生きる事になります。そのために、次に7^5という反例を考える意味が出てきますね。

by styx_rynex_syrinx | 2007-12-19 23:33

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